CSR

プロローグ

2011 3.11 2時46分
東日本大震災発生

あの日の揺れ、テレビから流れる映像、数か月続いた余震による船酔いの様な揺れ、繰り返し流される同じコマーシャル・・未だ心の中から消える事はありません。
3.11以降 わたしは当社朝礼にて、「東北被災地は大変な事になっている。こんな時だからこそ東北の皆さんの分まで力を合わせ頑張ろう!」と、毎日の様に語っていました。
日々朝礼で話をしながら、何だか胸の奥での苦しさがあったのは、被災地へ行って見て感じたことを話すのではなく、あくまでもテレビやラジオからの情報を元に話をしていたからでした。
「現場を見てもいないのにこれでよいのか・・」
わたし個人の話ですが、昔わたしの子供たちがまだ小学生で小さかった頃こんな事がありました。
近所の仲良しの女の子と長女。ある時全く話をしていない事に気付き問い詰めると「○○ちゃんが、あの子と話をしない方がいいよっていわれたから・・」。
わたしは長女にこう言いました「自分が嫌な事やいじわるをされたわけでもないのに、お友達が言ったからと○○ちゃんを無視するような事は決していいことではないよ」。
そんな過去を思い出しながらメディアの話だけで分かっているかの様にスタッフに話している自分が心のどこかで許せなかったのです。
日々悩みながら家族に東北被災地行きを相談するも、頻繁に強い余震が起こっていましたから勿論反対されました。
それでも日々その思いからか寝る事さえ出来ず、家族には内緒で行くべき準備を始めました。
わたしの身に万が一の事があってはいけませんから、会社の業務の事から始まり最後は妻や子供達に宛てる遺書まで。
そして震災発生から約一か月後の4月14日、いつも通り仕事を終えてから自宅へ戻り車庫に準備してあったものを車に積み込み家族を玄関に呼び出しました。
妻は察していたようでしたが、子供達は何の事やらの顔。一人ずつにそれぞれの話を用意していたのですが「じゃあな」と、一言だけ言い残し自宅を後にし、高速道路へ乗ってから「なんで僕はもっとちゃんと話をしてこなかったんだ。」と、後悔しながら運転していたのを覚えています。
わたしは、あの日、目に飛び込んできた仙台空港のセスナが津波で押し流される映像が忘れられず、仙台に行く事は決めて出たのですが、福島へ入ったあたりで強い余震により5時間余りの通行止めと更には、高速道路を降りてからの道路が寸断されていたため、岩手県一関市から沿岸部に出て戻るルートしか無い情報のもと、先ずは一関インターを目指しました。
福島からの高速道路の路面は、所々大きなクラックが入っていたり、隆起していたりと、80キロのスピードで走れば車がジャンプしてしまう状態の為、40~50キロのスピードで前方の車の様子を見ながら、時には一旦止まって隆起を乗り越えなんとか一関のインターチェンジを降りる事が出来ました。
この後、陸前高田市へ向かい仙台へのルートの情報を得て車のナビゲーションをセットして向かうのですが、「そういえば、陸前高田市って若い髭を生やした市長さんだったよな」なんて考えてたのを覚えています。一関の街は、さほど壊れた家屋なども見当たらず、黄色の帽子を被った小さな子の手を繋ぎながら嬉しそうに横断歩道を渡るお母さん、畑では麦藁帽を被り作業をしている人、普通に沢山の車が走っている。
わたしは夢でも見ているのではないかと、何度もほっぺたを抓りながら運転をしていました。一関インターチェンジを降りて、しばらく街中を走り峠を越えて降りると、目の前に飛び込んで来た光景は一面砂や流木で覆われた田畑と鉄道。車を降りて「なんだこれは」と、ただただ立ち尽くすだけでした。その後再度車に乗り込み、道の両側は瓦礫の山、ダンプカー一台が通れるほどの道幅の道路を進んで行きました。
途中途中で車を降りるも、只々目を曇らせながらカメラのシャッターを押す事しかできませんでした。その時わたしはこの陸前高田市をこれからも見届けて行こうと心に誓ったのでした。
5日後、無事会社へ戻りスタッフに話をすると、皆涙して聞いてくれたのを覚えています。行く前と話の内容などさほど変わらないと思うのですが、やはり現場を見て来た想いが言葉に入り込んだのでしょう。その後当社ではCSR活動のひとつとして現在も陸前高田市を応援させていただいております。
お金を送ったり物資を送る事も勿論大切な事です。しかし、わたしはいつもスタッフにこう話します。
「何よりも大切なのは、我々が今を力強くしっかりと生きて行く姿を見せる事」だと。こんな姿を見て被災地の皆さんが「今に見ておれ」と立ち上がって来てくれる事。それが我々の出来る事、やれる事だと。
それでも会社には募金箱もありますし、広島の土砂災害時や熊本の地震には、タオルなどの物資を被災地で必要な時に必要な場所の情報を入れながら送らせていただいております。
日本国内の災害に限らず、フィリピンのハイエンの台風の時にも、当社スタッフにフィリピン生まれの者も数名おりましたので、お手紙を添えて募金箱を持ちマニラ市内の赤十字まで行って来た事もありました。「出来る事はなに・・伝える事・・伝え続ける事・・寄り添って行く事」これからも私達はこの事をいつも胸にCSR活動を続けてまいります。

これまでの活動

2011年4月

「たとえ一家族だけでも被災者の面倒をみられないか」
そんな思いで、陸前高田市、大船渡市を訪問
被災から間もなく、現地はまだ手の付けられない状態で、何もできなかったが、「できることはしたい」という想いは一層募った。

2012年2月

陸前高田市の製材所が被災地の子供たちのスポーツ振興資金に被災木を加工したトンボを販売していることを知り、県内の窓口となっている佐久市役所野球部経由で取り寄せる。
駒ヶ根市へ20セットを寄贈。
同トンボは、駒ヶ根市のアルプス球場と、同市下平の丸塚球場に置かれ、グランドの整備に活用されています。

2012年7月

陸前高田市太田仮設住宅にお住いの「ほほえみ会」の皆さんが心を込めて作ったストラップの受託販売を始めました。駒ヶ根市及び、近隣で開催される各種イベントに出展・販売し、収益を全額被災地へ送る活動を行っております。

2011年3月〜

東日本大震災より、被災地支援募金箱として、ランチルームに募金箱を設置。広島の土砂災害、熊本の地震など被災地に支援として貯まった募金をお送りしています。